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高橋靖子

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2012.05.11

「表参道のヤッコさん」の新しい波

「表参道のヤッコさん」が6年前に一冊の本になったのは、
ブログのおかげだった。
そのブログのなかで、一週間だけ70年代への旅をしてみようと
思いついたのは、出版の2年ほど前の5月のゴールデンウィークの最中だったと思う。
一週間過ぎに、ブログ担当の江坂さんから「旅」を継続するよう勧められ、
私は思いつくままに、書き続けた。
70年代の写真が未整理なまま、山のようにあったことも、幸いだった。
それをアスペクト(出版社)の編集者が目にとめてくれて、一冊の本になったのだった。
偶然にも発行日が表参道ヒルズのオープンと重なったこともあって、
私は、ものすごくたくさんの新聞、雑誌、テレビの取材を受けた。

P5100282.jpg


それから6年たって、河出書房新社で文庫化していただくことができた。
ハンディな形で、新しい命を吹き込まれた「ヤッコさん」を
「70年代の、小さなタイムマシーン」とツイートしてくれた女の子がいて、うれしかった。
6年間の時の流れの中で、内容や構成を変えて、世の中に飛び出した
タイムマシーンが、新しい時代の鼓動にビュンと呼応してくれることを願っている。

P4280157.jpg


6年間の中で何が変わったかといえば、本が巣立ってゆくための
プロモーションの多様性だろうか。
河出書房新社で行われた初トークショウは、出版社のホームページと
私のツイッターによる告知で参加を呼びかけたが、1時間で満員になった。

kawade.jpg (河出書房新社でのトークショウ。担当の渡辺さんと)

その波に乗って、西麻布のクラブ「新世界」でのトークショウも、ツイッターと
フェイスブックの告知で参加を募った。

sinsekai.jpg (新世界で。まん中はドラムの中村達也さん)


その間、表参道の角にある山陽堂書店が、4週間にわたって、
「表参道のヤッコさん展」を開催してくれた。
オープニングパーティ、トークショウが4回、すべてホームページ、
フェイスブック、ツイッターで告知し、皆さんに自由に参加していただいた。

sanyoudo.jpg(写真家の十文字美信さんと。十文字さんの話に終始笑いが起きた)


img063.jpg(私の初期のアシスタントでもあったスタイリストの中村のんさんと)


img062.jpg(ライターの森永博志さんと。彼の口から、「ヤッコさんは表参道の巫女」説が飛び出す。写真はないが、幼友だちともいえる松山猛さんの話も味わい深かった。)


img066.jpg (スタイリストの中村のんさんとの回は、ツイッターで知った過去のアシスタントの何人かが、打ち合わせもなく集合してくれた。)


こうして私は(このトシで)、ソーシャル・メディアの波を、思い切り楽しみつつ、怒濤の日々を駆け抜けたのだった。
1ヶ月の間に、トークショウ7回、パーティ2回、その間、撮影や、取材もあった。

その中で、「表参道・原宿 東急プラザ」のスターバックス、オープン前夜の
出版記念パーティーは、また別の流れで行われた。
この日のためのプロジェクトは1年前に組まれ、コツコツと準備が進んでいた。
パーティ寸前に考えていた100人のご招待客が、現実には300人近くに膨れ上がり、
私は無我夢中で開場を泳いでいた。
坂本美雨ちゃんがお祝のライブをしてくれた。
前日、撮影で会った Charが約束通りあらわれた!
何人かの仲よしのミュージシャンが来てくれた。
高橋幸宏さんからは大きなお花が(ロンドンから飛んできてくれた)


img064.jpg(野宮真貴さん、高橋優さん、坂本美雨さん、友森昭一さんに囲まれて)


私にとっては、めったにない凝縮した時間の中で、
私は「控え目な目立ちたがり屋」から「びくともしない目立ちたがり屋」に変貌し、
毎日しゃべりつづけた・・・
でもその時間が過ぎたとたん、元に戻って、今は日常の中にいる。

こんな凝縮した時間を通過できたのは、私の周りの親しい友人たちのおかげだ。
長いスタイリスト業の中で、知り合った沢山の人たち、
新しいメディアの中から生まれたたくさんの新しい友人、
もうちょっと待ってね。
書き足りないこと、形を変えて書いて行きたい。
そしてこれからも何かしら新しい自分を見ていただきたい...というのが私の願い。
この時期、参加してくださったみなさま、本当にありがとう!

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PERMALINK  |  2012.05.11  |  FASHION
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2012.04.26

「柔らかな犀の角」


image001.jpg(写真  表参道・原宿の東急プラザのテラスで)


俳優の山崎努さんから、新しい著書が送られてきた。
私にそんな特権があるのも、長年スタイリスト稼業を続けてきた
おかげだ。
(山崎さんと豊川悦司さんの温泉卓球のCMや、携帯電話のCMは
シリーズ化されていて、いつも楽しかった...)
今回の装丁も、隅々まで山崎さんのセンスが生かされていて、渋くて
かっこいい。
うーんと唸った後、本来派手好きな私は、手もちのピンクや黄緑の
ポストイットを軍艦の旗のようにかかげて、格調ある本を、
こんな具合にしてしまっている。

読みながら、ページを折ったり、ポストイットをつけずには
いられないくらい、おもしろい。
そんなことを口に出したら、ほんとに失礼極まりないと知りつつ、
時々、山崎さんの思考のどこかと、私は似てる!って思ってしまう。
山崎さんの難しいところを飛び越すと、共感する部分が
浮きあがってくる。

「僕は俳優としてアマチュアだと思っている」
そんな書き出しの章がある。
私は、そうだわ!と即、同意する。
私もねー、「表参道のヤッコさん」のまえがきに「これか仕事なのか、
趣味なのか、試練なのか、あるいは冒険なのか」と、スタイリストに
なりきれない自分のこと、書いてしまったもの。
(「ヤッコ、それは違うよ!」という山崎さんの声が聞こえてくるけど、
書き進んでよいですか?)

資源ごみの収集の朝、ホームレスの人が、どこからともなく現れて
お役所よりも先に持ってゆく風景。
私も、何故か彼らが持っていきやすいようにペットボトルなど
ぺたんこにして置いておく。
多摩川の河川敷でブルーシートの方に話しかける風景。
私も千駄ヶ谷の体育館の裏のブルーシート地帯で、洗濯物を干したり、
ベンチに寝ころんで文庫本を読んでる人などみると、
「何をお読みですか?」と聞いてみたくなる。

本のどこかに、グレイゾーンという言葉があった。
ツイッターなどで、「世の中の勝者と敗者の条件」をリストアップ
してるのを見たりすると、ちょっとムカついて
「私は、両者のすき間で生きてきたし、これからも」
なんてツイートしちゃう。
若ものにそんな価値観持ってほしくないな、と。

この世には読むべき本がこんなにあって、それに関して
知性とユーモアを持って洞察している人がいる。
それを思うと、追いつかないなー、とめげるけど、こんなことを
言った人がいる。
6年間読書日記を書き続けたご本人が、「最初の頃のを読み返すと、
下手でいやになる」とおっしゃったとか。
ということは、これからの私にも上達はありうるということか。
素晴らしい希望。
その希望を持って、最終章にある「臨終図鑑」を読む。
ボードビリアンの内藤陳さんはその日、コロッケを食べ、トイレに入ってから
「息どうするんだっけ」と訊いて、間もなく息をしなくなった、と。

山崎さんはこの本の中で温情を持って、あっという間に絶版に
なってしまった私の「小さな食卓」(講談社)を取り上げてくれている。
他の文章に比べたら、息抜きの、オマケの部分なのだが、
うれしいから抜き書きさせていただく。
(くれぐれも、山崎さんのエコヒイキにのっての事です)



image002.jpg


『「独り暮らしの女性が元気はつらつと自分の食卓を描写したもので
添えられた写真も、自分自身で撮っている。文、写真とも
著者のオープンな性格がよく出ていて快い。
たいせつにしていた家庭が、ある日突然壊れ、独りぼっちになってしまう。
しかし彼女はめげない。「毎日毎日せっせと食べて」乗り切ってゆく。
この人にはちょっとオッチョコチョイな面もある。「石焼ビビンバ」の
写真にはびっくりした。ほとんど食べてしまった後の、鍋底にはりついた
米粒などの残骸をフカンで撮っている。「あ、しまった、いただく前に
デジカメでおさえておくのわすれた」。でもこれもおいしそうよね、と
独りごとを言いシャッターを押したのだ。ふつうなら汚らしくなるが
うまそうに見え、笑える。』

「柔らかな犀の角・山崎努の読書日記」文藝春秋社 1700円+税

PERMALINK  |  2012.04.26  |  FASHION
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2012.04.02

カーネーションに誘われて.17 三つ編み少女のころ

小学校にあがるまで、私の髪の毛は養母の実用主義によって、
いつも漫画「サザエさん」のワカメちゃんのように、短いおかっぱと
決まっていた。
そんな短さの中でもいつもより5ミリとか1センチとか短い時があって、
幼いながらとても気になった。目立たせないように、わざと
スキップして髪を揺らして、ごまかしたつもりになったりした。
多分3年生になって、やっと三つ編みの長い髪が許されたのだった。

img047.jpg家の庭で、愛犬エスと



このころの楽しみは、雑誌だった。
娯楽の少ない時代だったし、田舎だから毎月一冊だけ
決められた雑誌をとってもらっていた。
小学校に入ったとたん小学一年生」を用意されたが、
一生懸命頼んで「少女」にしてもらった。
本当は、もうちょっと大人っぽい「少女の友」やおしゃれな
「ひまわり」(のちの「ジュニアそれいゆ」)が欲しかった。
ちょっと離れた所に住んでいる同級生のお姉さんの雑誌を
借りて、むさぼるように読んだり、眺めたりしていた。

家が写真館だったので、家にあるある数少ない写真雑誌
「アカヒカメラ」や「写真文化」を観ていたのは、いつ頃から
だったろう。
繰り返し観ているうちに自然に写真家の名前やその写真家の
傾向も知るようになった。年代はまちまちかもしれないが、
木村伊兵衛、土門拳、奈良原一高、細江英公などという名前が
自然に記憶の中に入っている。
スタイリストになって、初めて佐藤明さんとお仕事をした時、
あのモダンな映像を撮る「佐藤明」なのだ!と緊張した。
ご自宅の2階がスタジオだったので、休み時間など階下の部屋で
スープをごちそうになった。ダンスクの大きなカップでいただく
スープは、北欧の味がした。

幼いころ写真誌を眺めながら心から思ったのは
「私は到底写真家にはなれない」ということだった。
カメラという機械も不思議だったが、それを通して、それぞれの
写真家が自分の美の世界を展開していることに圧倒され続けた。
偶然ながらスタイリストとして、映像制作のそばに居続けているのは、
無意識に選んだ私のベストポジションなのかもしれない。


PERMALINK  |  2012.04.02  |  FASHION
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2012.03.28

カーネーションに誘われて.16 母の奇跡(2)

母がダンスを始めた動機は、乳癌手術のあとのリハビリ
のためだった。
母が乳癌の手術を受けた約40年前は、現在よりもずっと深く
広範囲に切除された。胸のみならず、腕の半分ぐらいまで、
リンパ腺や筋肉の一部が削り取られた。
左右のバランスが悪くなり、母はよく転ぶようになった。
アメリカではそういう人たちのために開発された
それぞれの人たちに合う重たさのパッドがあることを、
私は人づてに知った。そのパッドをブラに装着すると、
左右のバランスが良くなる。
私は海外ロケがあると、パッドを買って帰った。
デパートの下着売り場で理由を言うと、出してくれるのだ。
母は、ナチュラルに眠るために、夜もそれをつけていた。

医者からは「腕は一生肩より上には上がらないだろう」と
言われていた。
その状況をちょっとでも改善するために、ダンスを習い始めた。

Hula-1.jpg

ダンスに夢中になり、気がつけば、大量のリンパや筋肉を失ったはずの
左手は、すっと高く、天に差し伸べられるようになっていた。
母は激しいタンゴが得意だったが、ドレスは胸元は開けず、長そでの
ドレスを着ていた。
それは年齢のためだけではなかったのだ。

70歳近くになった時、タンゴのリズムから、フラダンスのリズムに移った。
そのゆったりとしたリズムを楽しみ、そこにも母の幸せな笑顔があった。
いつしか、そのダンスも、カラオケに移った。
「これからは腹式呼吸よ」と笑って言った。
カラオケのコンテストがあると出場し、何らかの受賞をするようになり、
そのカップが部屋を飾るようになった。

ディサービスに通うようになっても、娯楽室では、得意の歌で
みんなを楽しませたり、圧倒したり...
そして、気がつけば89歳。

PERMALINK  |  2012.03.28  |  FASHION
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2012.03.27

カーネーションに誘われて.15 母の奇跡(1)

母はたくさんの病気(癌)に見舞われたあと、4人の父母の中で、
ただ一人長寿を保っている。
いちばん命を危ぶまれた母が、89歳の誕生日を迎えられたことは
うれしい奇跡だ。
18歳で私を生み、その後も3人の子供と父の世話、子宮癌、乳癌、
すい臓癌を経験して、父を見送ったのが50代に入ったばかりの時
だった。
戦中、戦後をかろうじて生き抜いた母は、50代の初めに、青春期を
迎えた。

Dance-White-1.jpg


ひとりになった母は、四国八十八か所のお遍路さんから始まり、太陽の下、
ひたすら無心に歩くことによって、みるみる健康を取り戻していった。
そして何らかの経緯があって、ダンスを習い始めた。

それからの母は生きていることのすべてがダンス!になった。
ダンスに関して話し始めると、初恋の乙女が一途に恋ごころを語る
のに似て、それ以外のものは眼中にない。
生まれて初めて自分を解放し、自分を表現する世界に触れて、
無我夢中になっていた。

私は親孝行としてドレスを作る約束はしたけど、
「ダンスを観に行くのだけは勘弁してね...」という気持ちだった。
ある日、「一回ぐらい観ておかないと」と思い、ホテルの発表会に
行ってみた。
日常でも十分美しい母だったが、ステージ上を滑るように踊る母の姿は、
異次元の美しさに輝いていていた。

Dance-Yellow.jpg

表情は少しばかり硬かったが、踊りそのものがうまかった。
180度開脚するところではやすやすと開き、パートナーの腕の中で
思い切り「イナバウアー」を披露していた。
何という柔軟さ、何というリズム感。
確かに母には、表現者としての才能があるようだった。
子供である私だけではなく、多分母自身も予想だにしなかったこと
ではないだろうか。

老いのタイマーがコツコツと確実に時を刻む中で、
70代を迎えようとしている母は輝いていた。

PERMALINK  |  2012.03.27  |  FASHION
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PROFILE

高橋靖子

日本のスタイリストの草分け的存在。現在も、広告、CMなど第一線で活躍中。71年、ロンドンで山本寛斎氏とファッションショーを成功させ、その後、「ジギー・スターダスト」期のデヴィッド・ボウイの衣装を担当。鋤田正義氏によるデヴィッド・ボウイやT・レックスの撮影をアレンジしたことでも知られる。著書に『表参道のヤッコさん』『小さな食卓 おひとりさまのおいしい毎日』『わたしに拍手!』などがある。

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