BLOG




(写真・野上真宏)
70年代、季節を先取りする撮影が必要な時、緑を求めて、近場の南の島にくりだした。
数時間の飛行の後空港に降り立つと、南の島特有の湿気を含んだ暑い空気に包まれる。
撮影はハードだけど、楽しい思い出もいっぱいあった。
業界も、仲間も、私も若かった。
白い砂の無人島に、撮影機材と共に、大きなラジカセを持ちこんで、ロックを聴きながら終日撮影。
撮影が終わると、砂浜に寝転び、耳の半分を海の中に浸す。
地上のロック、海の中の音、その二つの音が混ざりあうのを聴きながら、頭上に広がる夕焼けを眺める。
ちょっと離れたところに停泊している船まで、ときには腰まで濡らして、機材や衣装を運び込んで、本島に戻る。
そういう、南の島の時間の端ばしは、忘れてしまったことも多いが、思い出として脳のどこかに住みついていたりする。
先日、鋤田正義さんのアシスタントだった野上真宏さんに久ぶりに会った。
現在はニューヨークに住む彼の、最新の映画を見せてもらう会があったのだ。
そのちょっと前に、iPadに収められた懐かしいポートフォリオを見せてもらった。
そこには、忘れていたロケ風景がたくさんあった。
こんな、馬乗りゲームをして遊んだこともあったのだ。
まず、若き日の長髪でひげの鋤田さん。そしてアシスタント、そこにに飛び乗ったのは、まだ若くて細い私。
そして私を押し潰しているのは、きっとアートディレクターの方。
野上さんと私が、水中撮影をしあって遊んでスナップもあって、それに関しては私の方がちょっぴり上手だった。
こうして無心に遊んでいるスナップは、撮影終了後の、たった一日ぐらいの休日の時だったと思う。
こうしてみると、何かおおらかだ。
撮影や衣装のチェックもほとんどなく、「おまかせ」の形で引き受けて、思う存分撮る。
時代が違うと言えばそれまでだけど、のほほんとした人間関係、未来観を
古代の遺蹟を見るような目で見る。
いや、私には見えないだけで、今でもどこかにはきっとあると思う、こういう風景。
原宿のカルチャーをつくり続けたピンクドラゴンの山崎眞行さんが亡くなった。

ヤマちゃんが作ったロックショップをなぞってみる。
怪人20面相(一瞬「人間喜劇」という店がダブる)
キングコング
シンガポールナイト
クリームソーダ(一瞬「キャロル」という店がダブる)
スーパーセックス・ロンドン
ガレッジパラダイス(一瞬「ミルクホール」がダブる)
ランデブー
ピンクドラゴン
私は半世紀弱、すべての場所を何らかの形で目撃してきた。
45年ぐらい前、新宿・伊勢丹脇のビルの細い階段を5階まで上がってゆくと
急に別世界が広がった。テカテカとした壁にペンキで描かれたフィフティーズの
金髪の若者の絵、ロックンロールが鳴り響く「怪人20面相」があった。
毎晩のようにここにきて未来を語るエーちゃん(矢沢永吉さん)の姿も
忘れることはできないが、ここで繰り広げられた青春噺は、またいつかのことにしよう。
急報があって、ヤマちゃんが運び込まれた病院で数時間を過ごしたあと、
私はその足で、かつて「怪人20面相」があった場所に立ち寄ってみた。
新宿伊勢丹脇の「無印良品」と「B' 2nd 」の間あたりの空を見上げた。
もしかしたら、ヤマちゃんが天国に行く前にちらっと立ち寄りそうな場所だが、
そこは建物の屋上にしきられた曇り空しか見えなかった。
新宿の怪人20面相から、原宿に移る前、仕事が終わると、ヤマちゃんは同僚の伴ちゃんとヒロを
乗せ、車で夜中の暗い原宿の明治通りを何度も往復した。
「いつか新宿と渋谷がつながるときがくる。原宿は平和な街として繁栄するようになる」
と伴ちゃんやヒロに説明していたそうだ。
ヤマちゃんには霊感めいたものすごい直感があった。
その後、すぐヤマちゃんは原宿に移り、若者にカルチャーの場所を次々と提供し続けてきたのだった。
そんな思い出の一端を以前のアシスタントに話して涙ぐんでいたら、
彼女からピンクドラゴンで撮った3年前の写真が送られてきた。
フリーペーパー「風とロック」のためにアシスタントが撮ったスナップだけど、
ピンクドラゴンは、ヤマちゃんの空気で輝いている。



ヤマちゃんが一瞬「ミルクホール」を作った頃、私には1歳に満たない子供がいた。
「ヤッコさん、子供をおぶって働きに来てもいいよ」と言っていた。
ラフォーレが、まだ教会だった頃、みんなに「アリスのレストラン」の構想を話してくれた時も
同じことを言っていた。
「ヤッコさんが子供おぶって働く場所だよ」と。
ところが、私はスタイリストとして売れちゃったから、山ちゃんは「今のところ大丈夫だな」と
思ってくれたのではないか?
「ヤッコさんの老後は、看るからね」みたいなことを言ってくれて、
私も、それをうれしそうに繰り返していたそうだ。
今頃思い出しても遅いけど、お互い忘れてたんだからアイコだ。
ヤマちゃんには、人生にはいくつもの本当の友情があることを思い知らされた。
忘れたり、思い出したりしながら、ヤマちゃんは私の中で生き続けて行く。

いつになっても、季節の行事は懐かしい。
走り出した新しい時間はとどまることを知らず、いつの間にか、懐かしい時間へと変わってゆく。
これは50年前の私の家の向かいにあった酒屋さんの風景だ。
あの分厚い日めくりのカレンダーが1枚だけめくられた1月2日は、初荷だった。
いちばん左に、振りそでを着た私がいる。隣は酒屋の娘チーちゃん。後ろにいるのは私の養母。
その隣で赤ちゃんを抱いているのが魚屋のよっちゃん。よっちゃんとは生涯の友で、今でも
1時間以上の長電話をする。トラックの屋根の上に乗っているのが、店主の小林のおじちゃんだ。
静かな元日が過ぎると、商店街にこうしたお祭りがあった。
取引先からトラックに載せられたお酒が届き、街の子供たちが集まると、このトラックの上から
みかんを撒く。
この写真は、うちの隣の田中屋釣り具店の屋根に養父が上って撮ったものだ。
ま向かいの自分の家の2階からだと正面過ぎるので、アングルを考えて斜め上から撮っている。
写真中央の黒い影のボケは、自転車で通り過ぎようとしている人だろう。
フイルムではなくガラス製の乾板というもので撮っているので、こうなったのだと思う。
(と、写真屋の娘らしい解説をしてみた)
黒いトタン屋根の小林酒店の隣は、江戸埼屋と読める。洗濯・染物屋さんだ。
そして・・・と、1枚の写真から、私の頭の中には街全体の風景がくっきりと蘇る。
過去を振り返る。過去を確認する。
これも時にはやらなくてはならないことなのかもしれない。
新しく、ひとつの覚悟を持って生きて行くためには。


小学2年生。
昭和22年。戦争が終わって2年しか経っていない。
その頃、もうこんなかわいい女の子が、茨城の田舎にいた。
赤いボレロ、スカートの上にチェックのエプロン、頭にはスカーフをして
五色のテープのついたタンバリンを持つ少女は輝美(てるみ)ちゃん。
きちんとバレエシューズを履いている。
その隣で何となくぎこちないポーズをとっている顔の見えない女の子が私だ。
私は男役で、黒の別珍の上下に、ウエストに白いサッシュ、大きな帽子をかぶり、
運動靴をはいている。写真では見えないけれど、左手には輝美ちゃんと同じように
タンバリンを持っている。
私たちは左右の舞台からタンバリンを鳴らしながら出てきて、中央で踊るのだ。
私は気楽だった。
教えられた振りを何んとなくこなせば、それでOK。
輝美ちゃんは、ダンスの先生とお母さんが付きっきりで、顔の位置から、指先まで
こまごまと指示が飛ぶ。
輝美ちゃんはしばらく茨城にいるけれど、いつか東京に戻ってバレリーナに
なるはずだった。
終戦後、私たちの街は空っぽになった。
神風特攻隊で有名な霞ヶ浦予科練と航空隊が消滅したのだ。
その施設の周りは田んぼや蓮田だったが、そこにも大きな爆弾穴と呼ばれる戦争の傷跡があった。
まもなく、もと予科練の施設に日本体育大学が入った。たぶん東京の校舎を再建する間のことだったろう。
輝美ちゃんのお父さんは、日体大の教頭先生(の役割のかた)だった。
学校の隅には、先生たちの家があった。
輝美ちゃんが転校してきて、近所だった私はすぐに仲良くなった。
私の「おしゃれ好き」「都会好き」精神が東京の風を運んできた輝美ちゃんに近づきたかったのは間違いない。
輝美ちゃんの家に遊びに行くときはちょっと緊張した。
私たちの家のように畳敷きではなく、家中がフローリングだった。
そして、お茶を飲むのも、食事をするのも、ちゃぶ台ではなくテーブルで椅子の生活だった。
だから、出されるものまで、ものすごくおしゃれに思えた。
タンポポをゆでたお浸しなんて、色がきれいで、びっくりした。
あとで知ったが、食料不足だから、お母さんが工夫したものだったそうだけど。
白菜やホウレンソウなど、野菜に恵まれている我が家では決して出ないメニューだった。
輝美ちゃんが同級生だったのは一年ぐらい。
日体大が東京に戻り、輝美ちゃん一家もいなくなった。
輝美ちゃんは東京で、石井獏バレエ団に入り、そこには雑誌「少女」や、三益愛子の母もの映画の子供役で
活躍していた松島トモ子がいると手紙が来たこともあった。
1969年。44年も前のこと。
自分にとって、人生のエポックの時だった。
この年のいろんな思い出が冬の白い息や張りつめた空気の中にあることが、
1月2月という季節の記録が出てきて、我ながら納得した。
暑い夏の頃から、きっと沢山の準備が必要だったろう。
あの頃のエコノミーのチケットが68万円ぐらいだったし、1ドルは360円の時代だ。
きついスタイリストの仕事の中で、何とか資金をつくって、ニューヨークに出かけた。
20代の後半だった。
人に話す時、思い出すのはウッドストックの名残香や、ミュージカル「ヘア」や
イーストビレッジことだった。
時はフラワージェネレーション、ヒッピー文化の真っ只中だったから。
しかし、年が明けてから開始した資料の整理作業の中で、
私は自分が地道な努力家であったことを発見したのだった。
何回か往復したであろう、エアメールの英文の下書きの一部。
稚拙な英文だから、再読には耐えないけれど、ニューヨークの広告代理店の
「スタイリング・ディヴィジョン」あてのものだ。
この手紙によって、公式ではないけれど、「数週間の見学者」として
受け入れてもらえることになった。
私は組織の中にゲリラっぽい形で、ほんのちょっとの間、参加した。
こういう姿勢は、今も昔も変わらない。
緻密に記された日々のメモ。途中からインクが茶色になっている。
これはパチオーネというアートデイレクター・カメラマンから、
「ヤッコ、茶色のペンを使いたまえ。茶色は美しい」と言われたから。
原稿用紙の下に誠文堂新光社と印刷されたものもある。
確か、これは「ブレーン」という業界紙に、ニューヨークのスタイリスト達のことを
レポートしたからだと思う。
100枚以上あるカラースライド。すべてヤシカエレクトロ35で撮った。
今や退色してすべての写真が、セピアっぽくなっている。
撮影と一緒に貴重な話はソニーの小型テープレコーダーに吹き込んだ。
インタビューの前にいくら回そうとしても動かない。
困って、ソニーのサービスステーションに電話していろいろ質問すると、電話の向こうから
「バッテリーが入っているかどうか、チェックしたらどうか」という声。
私はニューヨークで「テープレコーダーは電池によって動く」という偉大な事実を知ったのだった。
カラースライドの一部。スタイリスト達はキュートでチャーミングだった。
最終的には彼女たちとジョークを飛ばせるようになった。
デスクに座っている女性は、キャスティング。その下の写真は、カラリストの部屋の壁面。
スタイリスト達もいろいろ分野が分かれていて
ファッション誌からコマーシャルに移ったスタイリストが、私の面倒をよくみてくれた。
