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パチパチ・パーティ
高橋靖子YASUKO TAKAHASHI
スタイリスト
120日のギター弾き

二つの灰皿、ふたつの吸い殻

ある日曜日、NHK日曜美術館で「バルテュス」を観た。
テレビの前で、私自身が深い呼吸になってゆくのを感じた。
一人の画家と、彼にまつわる一生の物語と作品の紹介だった。
番組は静かに、ドラマチックに進行して、終った。
終った瞬間、それ以上テレビ音を聴きたくなくて、テレビを消した。
とたん、家の外の一角から、小鳥達のさえずりが奇跡のように一斉にわきあがって、
朝の空気を振動させている。
小鳥達が飛び去ると、街の遠くの環境音や近所のちょっとした話し声や犬の鳴き声が
伝わってくる。
非日常と日常が、過不足なく解け合う朝のひとときだった。
感動が心だけではなく、身体を突き刺している。
私は静かなエロスの余香をしばし味わった。


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番組は、現在開催されているバルテュス展をめぐってのものだった。
彼の最晩年のアトリエが会場内に再現されている。
アトリエの大きなテーブルには、絵の具類の中に灰皿が置いてあった。
さまざまな展示品は、注意深く運ばれてきただろうが、その中でもこの灰皿は
節子夫人が抱えて飛行機に乗ったそうだ。 
灰皿には吸い殻と灰が散らばっていたが、煙草はすべて、ギリギリ吸い口まで吸い尽くされていた。
この吸い殻にバルテュスの生きた証(あかし)がある。
灰皿。
煙草の吸い殻。
私が経験した50年前の光景が浮かび上がってきた。

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20代の始め、私は大学を卒業して、親から家を出るようにうながされていた。
しかし就職はしたものの、アパートの一室を借りる為の最初のお金がなかった。
どうしようかと思っていたところに、チャーミングな話が舞い込んできた。
ご主人を失くした女性がいて、留守番代わりに、そのお宅の別室に住んでほしいという話だった。
穏やかな丘陵に建っている、立派な家だった。
私には家の北側にある6帖くらいの部屋が与えられた。
玄関とは別に、その部屋だけの出入り口があって、本当の目的は住み込みのお手伝いさんの為の
部屋らしかった。
家の中に入れば、私の部屋は母屋と繋がっていて、私は時々女主人に呼ばれて、広い居間でお茶を飲み、
おしゃべりをすることもあった。
亡くなられたご主人は、著名な作家で(私は一冊も読んだ事がなかったが)、彼女もジャーナリストだった。
とはいえ、亡くなったご主人の事を訊く事もなく、また彼女からも話題にする事もなかった。

ある日、女主人から階下にある書斎から何か(それが何だったかは忘れたが)をもってくるように
言われた。
それで私は初めて、半地下になっているこの家の階段を降りた。
膨大な書籍が、きちんとおさめられた書架があり、大きな座り机があった。
座布団には和服がたたんで置かれ、机には原稿用紙と太い万年筆があった。
衝撃的だったのは、原稿用紙には、マスからはみ出した大きな、乱れた文字が二つ三つ書かれていた事だった。
ある瞬間、作家は致命的な症状に襲われ、それでも必死で書いた文字だったろう。
その絶筆がそのまま保存されていたのだ。
その脇の白い灰皿には、吸いかけの煙草が一本、およそ3センチほどの白い灰の筒をつけたまま
残されていた。
私は作家が異次元の世界へ向かう、凝縮されたままの時間を目撃してしまった。
もちろん、女主人は私が必然的にそれを観てしまうのはわかっていたはずだ。
私は心臓の高鳴りをかかえたまま居間に戻り、彼女から頼まれたものを手渡した。
彼女は何気なくそれを受け取り、私もなに言わなかった。
私はその後間もなく、この家を去らなくてはならなくなった。
なぜなら、私は生きる事に忙しく帰りが真夜中で、女主人が留守番役という本末転倒の日々が
始まってしまったから。
そんなこんなで、私は原宿の小さなアパートにたどり着いた訳だった。


バルテュスの灰皿を見るまでは、この吸い殻が残した生きた証を、すっかり忘れていた。
ふたつの灰皿、ふたつの吸い殻が結びついた瞬間だった。
生きていると時々不思議な照合に出会うということだろうか。

120日のギター弾き
記事URL
http://blog.madamefigaro.jp/yasuko_takahashi/nhk.html
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PROFILE
高橋靖子

日本のスタイリストの草分け的存在。現在も、広告、CMなど第一線で活躍中。71年、ロンドンで山本寛斎氏とファッションショーを成功させ、その後、「ジギー・スターダスト」期のデヴィッド・ボウイの衣装を担当。鋤田正義氏によるデヴィッド・ボウイやT・レックスの撮影をアレンジしたことでも知られる。著書に『表参道のヤッコさん』『小さな食卓 おひとりさまのおいしい毎日』『わたしに拍手!』などがある。

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