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2012.05.16

5月16日 種

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この季節のみどりのいきおいには
毎年のことながら感動するばかりである。
ことしも、ぼうぜんとしているうちに
はだかの庭が野原となり
ヒメシャガ、ヒメジョオン、カラスノエンドウ
むかいの小山もふっさりと嵩をふやし
まわりすべてがまみどりで
気づけば5月もなかばである。

写真は、遅ればせながら4月はじめに
庭のすみっこでひさしぶりに咲いた白い菫。
この家に越してきたとき
いろんな種類の菫をあちこちに植えた。
しかし、いつのまにかみんな姿を消していたから
見つけたときは、すごくうれしかった。
(菫の消滅)
土のなかで眠っていたかそけき種は
いったい、どんな拍子に目をさましたのだろう。

今朝は、クレマチスが咲いた。
シャクヤクとキツネノテブクロもぐんぐんのびて
わたしのなかでも忘れていた感覚が目をさますよう。
5月はうつくしい。


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2012.04.12

4月12日 桜

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つい先日、朝食を食べていると大家の奥さんがやってきて
「前の道で、東電が電線にかかる桜の枝を切り落としているから、
もらってくれば」
とおしえてくれた。
「大きい枝ぶりのとか、ほら、活けるとすてきでしょ。
うちには大きい花瓶がないから、わたしなんて傘立てに活けちゃった」

隣に住む大家の奥さんは、少女のように可愛らしい人なんである。
きっと若い頃は美人で評判で、望まれて鎌倉の資産家の家にお嫁に来て
強烈な個性な姑もいたからそれなりには大変だっただろうけど
その姑も昨年の春、震災後の慌ただしさのなかできちんと見送って
(ああ、おばあちゃんの一周忌もそろそろということだ)
はたから見れば、いわゆる女のしあわせといわれる人生を
順風満帆に送ってきた人のように見える。
もちろん実際のところや奥さんの心は、わたしにはわからないが
人間50年も生きれば、それぞれが経験した喜怒哀楽の比率は
いやでも顔に刻まれて
もはや隠しようのないものになってくる気がする。
50代半ばを過ぎた奥さんが、初恋の少女のような初々しさを
損なっていないのは
ひとえに、ご主人が彼女を大切にしつづけているからなのだろう。
ご主人もとてもやさしそうな人であるから。

そういえば先日会った京都の友人に指摘され
ああ、そのとおりと、ふかく納得したことがひとつ。
自分は人間に興味があって、だからこんな仕事をしているのだと
わたしが言ったとき、
すべからく慧眼の持ちぬしで、つねに真理を突く発言をする彼は
少々あきれた目でわたしを見ると、こう言い切ったのだ。
「鈴木さんは人間になんて興味あらへん。鈴木さんが興味あるのは
『しあわせ』や」
(間。ぱちくり)
いやー、ごもっとも。
そうです、わたしが興味あるのは「しあわせって何?」、それに尽きるのです。 
なのに、わたしがしている仕事は、まさに「しあわせのぞき」以外の何でもなく
悲しみや憎しみや無念が渦巻く、それこそ「人間界」には近寄ろうともしていない。
そこを見すえなければ、本当のしあわせなんてわかるわけもないのだろうから 
友人の一言は、ちょっと手痛い一言でもあった。


枝桜を飾る部屋がそこから桜色になる


水かえのために桜の花瓶を持ち歩いたら、花びらの道ができた。

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2012.04.12

4月2日 クリスマスローズを撮るのは

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2月末ごろだったか、ひさしぶりに植木屋さんを頼んだら
緑の密室のようだった庭に、ばっさばっさとたくさんの穴が開けられて
外からも中からも丸見えのあけすけな空間になってしまった。
繁茂の夏が来るまでしばらくのこととはいえ、この光景はかなり心もとない。
さすがにこれは切りすぎでしょう、と奮然となるものも幾つかあって
これだから植木屋さんにまかせるのはいやなのだが
枯れ葉は放射性物質をためこんでいるともいうし
アジサイやツツジの灌木も花をつけなくなってきていたので
庭の再生のための大手術と、じぶんに言い聞かせながらぐじぐじと過ごしている。

そのさみしい庭に、例年通りにまず椿が花をつけ、つづいてクリスマスローズが咲いた。
この花は、ある年齢を超えた女の心をふしぎに惹きつける花のように思う。
そろってうつむいて咲く一群の花は余寒の庭にうれしい春の気配を運び
花の高さまでしゃがみこみ、首をかしげて覗いてやっと見える蕊や花びらの内側の柄は
ほうとためいきをつくほどに愛らしい。

このクリスマスローズの姿を撮ろうと何度も試みたが
地に咲く姿のよさは、わたしの技術では思うようにうつしとることができない。
そこで切り花を花瓶にいけ、横から撮ったり下から撮ったり、
ようやく気に入った一枚が上の一枚である。
気に入ったのは、うまく「抽出」できたと思ったからで
自分でも漠然と説明しがたいこの花の魅力の本質を
カメラが偶然あるいは必然的につかみ取ってくれたかなという感じだ。

うつむき花のほろほろ落ちたる金色の蕊


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2012.04.11

3月25日 三条へ

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高田渡のCDを毎朝聞いていたら、無性に「三条」に行きたくなった。
三条とは、京都三条堺町のイノダコーヒのことである。
その昔イノダがこんなふうに歌われていたなんて、ちっとも知らなかった。
歌詞のなかで高田渡はイノダを「コーヒー屋」と呼んでいる。
コーヒー屋、いかにも苦くて黒くておいしいコーヒーが出てきそうでいい。

わたしは、いまだ「カフェ」ということばを(日本で)口にすることに抵抗感がある。
スマホとかフェイスブックとかAKBと言うときも舌もつれがするのだが
それらは単に「よくわからない」からであって
それとは違う、安易に使われすぎて意味も実体も摩耗してしまったことばに対しての
うっすらとした嫌悪感があるのである。
同じ意味で「癒し」ということばも、わたしは安易に使いたくない。
よきものを、薄めておとしめるような使いかたはしたくない。
これって単に頭がかたいのか、もしかしたら年齢の問題だろうが
たとえば「カフェ」とか「癒し」と言うときに
ちょっと恥ずかしそうに発音する人間がわたしは好きなのである。
もちろん、カフェとしての意味も実体もきちんとある店には敬意を感じているし
人を癒すために精魂こめて働いている人々は心から尊敬している。
要は、原義を知ろうとせず、上澄みのことばを頻用する無神経が嫌いというだけで。

あれ、高田渡から、どうしてこんな話になったんだっけ?
とにもかくにも久しぶりに京都に行って、三条のコーヒー屋でいつものお砂糖入り
甘くてすてきなコーヒを飲んできたのでした。
上の写真は、晴れのち豪雨のち晴れで大荒れの天神さん、北野天満宮の梅。


お口直しに、寺町「紙司柿本」で見つけたスミレのひとこと箋をつけておきます。

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2011.10.25

10月24日 でんでん 

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ポストに入れっぱなしだった昨日の夕刊。
しっとりしめっているので早いとこ読み、捨てようと思ったら
右手にかすかに固いものが当たる。
「ん?」
見ると、天気予報のところに小さなカタツムリがはりついていた。
大阪の傘マークにしがみついてるようなのが、かわいい。
今日は夏みたいに晴れちゃったもんね。

ちなみに左の男性は、大好きな内田樹先生。

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PROFILE

鈴木るみこ

編集者。出版社勤務を経て渡仏後フリーに。仕事のテーマは、旅と詩と生活と美しいもの。みどりのゆびは授からなかったが、みどりをいじるのは好き。海と山のある町の庭つき一軒家で暮らす。

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