2012.02.02
川勝正幸先生へ
今日の朝、5時過ぎから眠れなくて、
昨日の細野さんのリハーサルの事や、
エレキギターのセットアップの事などをあれこれ考えて、
どうにか自分をごまかそうと必死でした。
でも、やっぱり無理でした。
大好きな先輩の川勝正幸さんが亡くなってしまったのです。
この喪失感は果てしなく大きくて、
自分でもどうして良いか分からず、
ただただ今、PCの画面に向かっています。
僕は子供の頃、決して勉強が好きではなかったのですが
唯一好きだったのが作文でした。
何故だかは分かりませんが、
恐らく母親や担任に褒められたから
嬉しくなって好きになったんだと思います。
それは中学~高校と進んでも同じで、
その頃の夢はいつしか新聞記者に変わっていました。
「ものをかくしごと」につきたいと思っていました。
大学に入った頃には、ちらほらプロの音楽の仕事を
させてもらってはいたものの、それはあくまでも
バイト感覚で、大学で専攻していた政治学から
その思いはさらに強くなっているはずでした。
しかし、元来ぐうたらな僕は就職活動もせず
何となくやっていたはずの音楽に、いつの間にか
自分の運命を感じて本格的にこの世界に入りました。
それでも文章を書くのは好きだったので、
音の締め切りは守れないのに、書く仕事は速いと、
マネージャーが気がつき持って来てくれたのが
このコラムの前身のe-daysでの連載でした。
それまでも単発でのレヴューや散文やらを
仕事で引き受ける事はありましたが、
連載となるとはじめてで、とても嬉しかったです。
音楽のデータ的な文章ならば先輩方に
たくさん素晴らしい方がいらっしゃるので、
僕は音盤にまつわる個人的な思い出に特化した
文章を書こうとはじめました。
ただ、すごく個人的な思い出なので
読んだ人がどう思うかは正直わからないし、
これを公共の場で書く事自体が
はたしてありなのかどうか不安のままスタートしました。
しかし連載がはじまって、しばらくして
とても尊敬する方からうれしいお言葉を頂きました。
それこそが他ならぬ川勝正幸さんからのお言葉でした。
「漣さん、いつもコラム楽しく拝読していますよ。
それにしても渡さんが新しいもの好きだったとは!
驚きです(笑)」
僕はその言葉が嬉しくて調子に乗って
どんどん色んな事を書き続けました。
それこそ小学生の頃の自分のように。
ところが2年ほどたったある日、
連載が打ち切られると告げられました。
僕はとても残念に思っていたのですが、
ふと今まで書いた文章を加筆訂正しながら
書籍化出来ないかと思いはじめたのです。
だからすぐに最高の編集者=川勝さんにお電話しました。
すると、川勝さんは的確に僕のコラムから
一つの提案をしてくれました。
「漣さんのコラムの中での個人史的側面を
もっと聞いてみたいです。」
近々、打ち合わせましょうと約束したのも、つかの間、
なんと連載がFIGAROのwebで引き継がれる事が決まりました。
それが今のここなのです。
その結果を報告がてら川勝さんと会食した際に
「漣さん、これは良いチャンスですよ。
漣さんは音楽家の本業もお忙しいから
中々一冊分の文章を書く事に集中するのは大変です。
でも毎週ノルマがあるなら書けるはずでしょ。」
そう言って僕にこれから書いて欲しい事の
リストを書いてくれました。僕はそれから何度も
川勝さんと会食を重ね、くだらない話やなにかを
喋りながらもお互いに一つの方向に向かうべく、
舵を取りはじめました。
そんな月日が過ぎたある日、
川勝さんから、さらに加筆する為に、このコラムに出演する
多くの日本人の諸先輩方にインタヴューして、
子供の頃の僕には見えなかった別のアングルを描き出して、
俯瞰で捉えるという素晴らしいアイデアでした。
このプロジェクトは二人だけで秘密裏に進み、
ようやく、どこかにプレゼンしようかどうかという状態でした。
今思うと、僕たちは地図を作ろうとしていたのだと思います。
東京の音楽シーンの中に生まれた子供の地図と
その中で生きて来た当事者たちの地図、
そして、それをクリエイトして発信していた川勝さんの地図、
これらを重ね合わせる事で映し出される、
とある東京の時間軸を超えた音楽シーンの地図。
川勝さんが突然いなくなってしまって
生前お仕事を共にしていた多くの人々が
それぞれに喪失感を味わっているはずです。
それだけ川勝さんの活動が、興味が
多岐に渡っていた事の証です。
今はただただ悲しいのですが、
僕はいつか川勝さんと思い描いた地図を完成させたいです。
それが僕に出来る唯一の恩返しかも知れません。
川勝さん、
今度の休みにいつものお蕎麦屋さんに行きます。
帰りに隅田川を眺めて帰ります。
僕は元気にがんばって書き上げます。
誤字脱字少なく書けるように精進します。
デヴィット・リンチじゃなくて、デヴィッド・リンチでしたよね!
2012年2月1日、
高田漣
名著「21世紀のポップ中毒者」この出版記念トークショーでご一緒させて頂きました
あんなにご一緒していたのに写真は取材時のこれだけです。(BRUTUS 2007 10/1号 )
2012.01.30
君は友だち、僕の友だちの話
今年ついに長年恐れていた事態が起きました。
僕宛の年賀状が一通も来なかったのです(爆笑)
しかしそれもそのはず。
僕は高校生の頃から一切、年賀状を書かないと決めたのです。
偉そうに言う話ではありませんが、
社交辞令のように「今年もよろしく♡」
なんて書くのが何となく苦手だったので
親しい仲間にはそう伝えていましたが、
いざ、その事態が起きてみると正月早々
「僕って、こ、孤独かも、、、」と
不安になるわけでして(笑)
毎度ばかばかしい話を一席。
今年は新年早々、吉祥寺のキチムで
久々のリズム隊ありのライブをしました。
去年までは弾き語りや中島ノブユキさんのピアノとの
デュオなどが多かったので新鮮な気持ちで
アンサンブルを練る事が出来ました。
バンド編成であっても違った編成でもそうですが、
アレンジを練っていく中で自分の音楽的語彙に
気が付かされる事って多いものです。
僕の場合は往々にして無意識にジェームス・テイラー風に
しようとしているきらいがあるように思います。
アレンジしていく際はほとんどの場合アコギでの作業で、
おのずとその響きがアンサンブルの要になるからでしょうか。
ジェームス・テイラーは僕のコラムでは
何度も名前が挙がっていますが、言うまでもなく
1970年代のシンガーソングライターの
ブームを代表するアーティストで、
印象的なコードワークとソウルフルでありながら
穏やかな歌声が特徴的ですね。
ジェームス・テイラーは米国出身ですが
渡英して、ビートルズのアップルレコードと契約して
本格的なプロの世界に入りました。
ジェームス・テイラーの回想によると
その時期、ビートルズが「ホワイトアルバム」を制作中で
そのスタジオを見学したりしながら、空き時間を使って
録音したりしていたという何ともすごい話です(驚)
しかしながら、そのアップルのデビュー作は
ポールやジョージが参加するも商業的に失敗。
失意のまま本国へ戻ったそうです。
予断ですが、ジェームス・テイラーのロックの殿堂入りの際の
プレゼンテイターはポールであったり、
後述するトルバドールのライブの際にMCで
「僕はあの日(アップルと契約した日)人生の扉を開けたんだ。
大概の人は人生の扉を開けるというと
不吉な出来事の事を指すけど(笑)僕の場合は違ったんだ。」
と話しているし、史実としては苦い過去ですが
むしろ、そこからさらに次のステップに進んだという方が
正しいのかも知れませんね。
ともかく、本国に戻ったジェームス・テイラーは
旧友のギタリストのダニー・コーチマー(クーチ)や
当時すでに伝説的な作曲家でもあったキャロル・キングらと
新たなアンサンブルを組み上げます。
これこそが70年代を代表するアンサンブルの一つですが、
そこにはベースのリー・スクラーとドラムのラス・カンケルという
鉄壁のリズム隊が鎮座していました。
ラス・カンケルの独特なタム・ワークや
音数が多いながらも歌を邪魔しないリー・スクラーのベース。
今でも自分が自然と思い描くアンサンブルの
雛形の多くは、ここに起因してる事は間違いありません。
後に鍵盤奏者のクレイグ・ターキーを加えた
四人はザ・セクションと名乗り
多くのシンガーソングライターのアルバムなどを支えました。
キャロル・キングの「つづれおり」(71年)と
ジェームス・テイラーの「スウィート・ベイビー・ジェームス」(70年)や
「マッド・スライド・スリム」(71年)はそんな時代を代表する作品で
僕がどうのこうの言う前に名盤として鎮座していますね(笑)
この頃の演目を当時のメンバーと当時の場所でライブで再現するという
試みがトルバドール・リユニオンと呼ばれたライブです。
70年代を象徴する2枚ですね。
大ヒット「君の友だち」収録のマッド・スライド・スリム
LAの伝説のライブハウス「トルバドール」は
ニール・ヤングをはじめとして、
当時の西海岸の音楽家が集った場所ですが、
僕が子供の頃にその名をはじめて知ったのは
失われた終末期の、その中でも最悪な時期の
ジョン・レノンが親友(悪友)ニルソンと酔って騒いで
店を追い出されたという逸話ででした(笑)
Live at Troubadour
さて、このトルバドールでの再会の演奏は円熟のそれではなく
(ジェームス・テイラーの唱方の変化を除けば)
昔と全く変わらない演奏でした(良い意味ですw)。
でも、これは今にはじまった事ではなく、
かつて、ジェームス・テイラーの「マッド・スライド・スリム」に
続く作品として期待された1972年発売の
「ワン・マン・ドッグ」の頃の、細野晴臣先生の
「ジェームス・テイラーの作品は
どれを聴いても同じクオリティーだが
どれを聴いても同じだから新作には興味がない」
という発言からも、うかがい知る事が出来ます。
当時はその空気が本国でもそうであったようで
この作品の発表後、ジェームス・テイラーは
一時隠居してしまったそうです。
しかし、僕はこのアルバムのリズム面での
アンサンブルがとっても好きで、
高校生の頃は毎日このアルバムを流しながら一緒に演奏していて、
いつか自分もザ・セクションに加入するんだ!
と夢想していました(爆笑)
その思いは自分のデビューアルバム「ララバイ」の
1曲目の「Instrumental Ⅱ」(ワン・マン・ドッグ収録曲)を
演奏するという事で、ある意味では結実したのですが(苦笑)
ワーナー時代の初期3作は色調に統一感がありますね。こちらはワン・マン・ドッグ
その後のジェームス・テイラーの作品でも
好きなものは多いですが、特に気に入っていたのは
コロンビア移籍後初のアルバム「JT」(77年)です。
メンバーは久々のダニー・クーチ、リー・スクラー、
ラス・カンケルですが、70年代初頭の音ではありません。
もっとヴィヴィットで80年代を予見するような
ゴリゴリした音像であります。
アンサンブルもよりイケイケなリー・スクラーの
ブリブリしたベースが全面に聞こえて
ファンキーさが増したような演奏です。
もっとも前述の初期のアンサンブルもリズム隊は
相当にファンキーですが(笑)
自分にとって生涯の名盤「JT」
このアルバム「JT」はファンの間でも人気が高く
今でもライブで盛り上がる常連曲が多数です。
僕は実はこのアルバムが好きすぎて、
(恐らく無人島に持っていくならこれでしょう!)
自分のソロ活動に新たな方向性を模索していた時期に
洒落で(心機一転新たな世界へ踏み出した氏をリスペクトして)
次作のタイトルは「RT」で!と言っていましたが
それが結局採用されたのです。もっとも内容は
そしてジャケットも全くその影響は皆無ですが(爆笑)
近年のライブですがこのベーコンシアター盤は選曲も良い!「JT」からも多数!
思えば、友達の少ない僕ですが、その数少ない友達は
そんな音たちなのかも知れませんね(泣笑)
高田漣
アコギマガジンでも何度も取り上げられています
吉祥寺キチムにて。リハーサル中
2012.01.17
朝日のあたる部屋の話
去年のある日、テレビで五社英雄監督の「吉原炎上」が
やっていて思わず見入ってしまいました。
それは若かりし頃の名取裕子の濃厚な
ベッドシーンが見れるからではありません(笑)
落語に興味を持ってからというもの、
東京の下町風情などにも興味がいき、
多くの噺に出て来る吉原の景色や
当時の花魁のたくましさなど知りたい事が沢山で
その一部始終のように映画が映ったからであります。
毎度ばかばかしい話を一席。
去年のはじめの頃に三ノ輪から千束にかけて散歩した際に
吉原の大門はこの辺にあったのかと思ったり、
投込寺と呼ばれた浄閑寺を確認したりしました。
三多摩で育った僕には東東京は街並は未知の土地で
それこそ海外の都市と同じくワクワクします。
同時に子供の頃から多くの時間を過ごした
京都のように昔ながらの街並が残っているので
妙に懐かしかったりもするわけです。
さてその映画「吉原炎上」のなかで舞台となる遊郭の
「中梅楼」は当時としては(映画の時代設定は1911年)
かなりモダンな洋風の建物で、何故かそこだけが
ニューオリンズの景色のように見えたりしました。
それででしょうか? 映画を観終わった後に
ふと親父が日本語詩をつけてカバーして
歌っていた「朝日楼」という曲を思い出しました。
「朝日楼」の原題は「House of Rising Sun」。
日本では「朝日のあたる家」のタイトルで知られた曲であります。
北米の伝承歌であったこの曲については面白いエピソードがあります。
若かりし頃のボブ・ディランはNYのグリニッジヴィレッジなどで
多くの先輩ミュージシャンの演奏を真似ながら
自分のスタイルを確立しようと模索していたそうです。
そんな折、ディランはコロンビア・レコードと契約します。
そしてその初めてのアルバムの録音の際に
「House of Rising Sun」を歌いました。
しかし、これは彼がアレンジしたバージョンではなく
先輩にあたるデイヴ・ヴァン・ロンクのそれでした。
現存する音源では1933年にクラレンス・アシュレイという
伝統音楽家が録音したものが最古と言われているようですが
その後のレッドベリーが歌ったバージョン等を聴いても
それらはブルース進行であり、明らかにデイヴ・ヴァン・ロンクが
アレンジしたAmから下降していくベースラインが印象的な
それとは全く異なるものです。
この辺の経緯はディランのドキュメント
「ノー・ディレクション・ホーム」で詳しく語られていますが、
要約するとディランがデイヴ・ヴァン・ロンクに
許可を得ないまま彼のアレンジで録音したそうです。
これによって、しばらくの間、デイヴ・ヴァン・ロンクは
この曲を演奏するとディランの真似だと言われるので
演奏出来なかったそうですが、しばらくすると今度は
ディランのバージョンを下地にロック化したアニマルズの
「House of Rising Sun」が大ヒットして、
今度はディランが歌えなくなったとか(笑)
さて、その歌の内容はと言いますと「朝日のあたる」という
言葉の響きの陽なイメージとは正反対のとても悲しい、
実に悲痛な歌であります。
ニューオリンズの情婦となった女性がその半生を綴るという
内容なのです。高田渡バージョンではタイトルも「朝日楼」と
していますが、これによって僕はどことなく異国の事なのですが
吉原辺りの景色と重なって感じます。
ニューオリンズに女郎屋がある
ひとよんで朝日楼
たくさんの女が身をくずし
そうさ!あたいもそのひとり
(「朝日楼」高田渡)
ちなみに、この高田渡バージョンは長調で歌われていて、
それが余計に悲しさを誘いますが、
マイナーのバージョンの方は別の詩で歌っています。
そのタイトルは「ソフィア」です。
東京のまんなか四谷の街に
ソフィアという大学がある
たくさんの若者が通っている
オイラもそのひとり
(「ソフィア」高田渡)
某有名大学のことを歌っているようにも思えますが
内容はどちらかと言うと学校という権威主義や、
はたまた、それから逃れられない現代人の性を
歌っているように思われます。
実はオリジナルの「House of Rising Sun」も
諸説あって実は刑務所の事を歌っているとも言われています。
どちらにしてもこのバージョンは
笑える替え歌のように聞こえながらも
実は根深い社会構造を歌った痛快な詩だなと最近思います。
さて「吉原炎上」では出番は少しですが
すごく印象的なのが竹中直人さんが演じる桜田紅洋という演歌師です。
この演歌師とは現在の演歌ではなく本来は演説を歌う職業で
古くは英国に沢山いたとされるブロードサイド・バラッド等を
歌った人々とほぼ同じ職種であります。
つまり新聞などの活字をメロディーに乗せて路上で歌うのです。
親父もそんな明治の演歌師に相当影響を受けていて
その代表的演者の添田唖蝉坊の歌は沢山カバーしていました。
その親父も歌っていた「あきらめ節」が劇中で
花魁に歌われるシーンでは思わず号泣してしまいました。
(記憶が定かではありませんが、恐らくかたせ梨乃さんだった気が)
お前この世に何しにきたか
税や 利息を払うため
こんな浮き世へ 生まれてきたが
わが身の不運とあきらめる
(「あきらめ節」添田唖蝉坊)
時代も場所も違えども、
そこで必死に生きている人がいる限り歌はある。
僕は古くさい人間だからそう思えて仕方がないのです。
高田漣
別冊歴史読本「落語への招待」
その中の記事はどれも読み応えがあります。下のCDは演歌師の録音集です
2012.01.10
2012年のまくらの話
新年明けましておめでとうございます。
一年の計は元旦にありと昔から言われますが、
基本的に朝からお酒を飲んで普段以上にだらだらとして、
後はゴロゴロしながら箱根駅伝を観るというのが
毎年恒例の僕のお正月の過ごし方なのですが、
となると今年も、、、(笑)?
いや今年は、今年こそは
気を引き締めていきたい所存であります。
ところで、お正月に限らず僕の休日の過ごし方はと言えば
落語のDVDやCDを観たり聴いたりというのが
ここ数年続いているのですが、
毎回気になるのが落語家さんが
冒頭のまくらから噺に入る間合いであります。
いくつかのくすぐりがあって、それが本題のテーマであったり
あるいは全く関係なく時事ネタを話していたのに、ふと、とか、
あるいは去年の年末に惜しくも亡くなられた
立川談志師匠のように、その噺のケチをつけながら入るとか、
ともかく、みなさん自然でその瞬間も楽しみの一つであります。
「奥さん!いま噺に入りましたよ(笑)!」
何てパターンもありますね。
そんな落語家さんのまくらと噺の境界と同じく
とある瞬間に歌に入ってしまうという、
初めての経験を先日、年末に世田谷で行われた
詩の朗読イベントに参加した際に経験しました。
それは昭和を代表する詩人の山之口貘さんの詩で
親父が音を付けた「鮪に鰯」を歌った時でした。
あれ?と思った時に半ば自動的に歌う自分と
歌の中で物語を感じる自分とがいるような感覚で
今までは苦手だった歌い回しの部分が
初めて上手くいき、歌いながら客観的な自分が
「お、タカダワタル的な歌い方だな。
そうか!だから親父はこう歌っていたんだな。」
なんて思っていたり。上手く歌った云々ではなく
初めて歌えたなと思える瞬間でした。
そう言えば、親父とは沢山ステージを共にしましたが
親父の背中とお客さんの間には
いつも歌詞カードがありました。
だから大概の場合、僕は親父が次に何を
歌おうとしているのかが分かった状態で
独特な、あのMCを聞いていました。
(ほとんど場合、曲順はその場で決められていたのですw)
一見、無秩序に話しているようでいて
次の曲に話をつなげている事も多く、
調子が良ければ話が落ちて繋がるのですが、
支離滅裂なままなことも多々ありました(笑)
あるいは歌詞カードを探しながら、その話を続けたものの
見つからず断念!なんて事も多々(爆笑)
それと常套句のように、この曲にはこの話を
などと言うものも多かったので、
こちらも歌詞カードを見るまでもなく準備出来たりでした。
それはまさに親父にとっては、まくらであり、
演奏した瞬間に歌に入っていたのだろうなと思います。
僕は今まで声を素材に楽曲を作ったことは何度もありますが、
本当の意味で歌に向かったのは去年が最初だと思います。
ですから、まだまだ前座さんです(笑)
これから、今まで以上に精進して真打ち昇格を目指して
がんばりたいと思います。
甚だ簡単ではございますが、これにて
新年のごあいさつに変えさせて頂きます。
さて、毎度ばかばかしい話を今年も、、、
高田漣
新春に紀伊國屋書店で買った二冊。
落語手帖と古今亭志ん生師匠の名著「なめくじ艦隊」大昔に図書館で借りて以来です
2011.12.26
2011年の話
激動の年2011年が終わろうとしています。
恐らくこれからもこの年のことは
一生忘れないだろうなと思います。
まさに震災があった直後の3月末から4月いっぱいは
かなりタイトなスケジュールでしたが、
興味のあるお仕事が目白押しで個人的に楽しみにしていました。
しかしながら震災で多くの仕事が中止または延期に。
もちろん自分自身も仕事どころではなかったです。
その混乱の最中、OTOTOYという音楽配信サイトの
震災復興のチャリティー・アルバムの為に、
親父の歌の「鉱夫の祈り」を歌ったあたりから自分の中で
何かが変わりはじめました。この直後のことは
「音楽家の了見の話」で詳しく書いてあります。
3/11の翌日はワークショップの予定でした。
しかしながら余震もまだまだ大きなものが多く、
交通機関の乱れも激しく、
何よりも情報が錯綜している中での開催は
危険と判断して延期しました。
しかし、その翌週の頃になると生徒さん方から
「ひとりでいるよりもみんなといたい」との
意見も多数あり思い切って開催しました。
同時に狭いスタジオ内でアコースティクなライブを
行いUSTで配信したりもしました。
僕はこのライブの頃から「にほんごでうたう」という
意味について深く考えはじめました。
この日は小一時間のセットを二回演奏したのですが、
その一回目の配信を観ていた大友良英さんが
二回目の演奏の頃には駆けつけてくれました。
(実は会場が大友さんのお宅とご近所だったという幸運もありw)
アンコールでは演奏に参加してもらいました。
「これから僕は福島に行って来るよ。
自分に何が出来るのかはわからないけど。」
大友さんはライブ後にそう言って、それからゆっくりと着実に、
現在も「プロジェクトFUKUSHIMA」を続けています。
本当に音楽的にだけでなく、人として頭が下がる思いです。
4月に行ったピアニストの中島ノブユキさんとのライブは
配信限定で発売しましたが、この日の演目も親父の曲など
日本語を意識した曲が多かったです。

http://ototoy.jp/feature/index.php/2011052001
思い起こすと今年はそれ以後、沢山の場所で歌いました。
渋谷のBar dressや吉祥寺のハバナムーンなど小さなバーから
フジロックやライジングなどの大舞台まで。
ステージを重ねるごとに歌うことの楽しさを知り、
もっと良い曲を作りたいとの思いも湧いてきました。
そんな折に、ふと最古参のウクレレの生徒さん達に
「もうみなさんに教えて何年目だっけ?」
と聞いたらうつむき加減に
「来年で10周年です。」
と聞いてびっくり(笑)!さらに生徒さん達に
「漣さんがソロ・デビューした年と同じですよ。」
と聞いてさらにびっくり(笑)!
そ、そうだったのですね。
思えば70年代のシンガー・ソング・ライターの楽曲を
スティール・ギターのインストゥルメンタルで演奏するという
企画物のようなアルバムでデビューしてから色んなことがありました。
そして気がつけば今では親父の形見のアコースティク・ギターを
つま弾きながら人前で歌っているのですから
人生とは不思議なものです。
来年は新年早々からライブがあったり、
記念すべき10周年にふさわしい一年にしたいと思います。
未音源化の曲も増えてきたしアルバムも作らねば。
少し早いですが皆さん良いお年を。
そして被災されて現在も大変な思いをされている
多くの方々にとって新年が幸せな一年になることを
心よりお祈りいたします。
高田漣


高田漣
1973年、日本を代表するフォークシンガー・高田渡の長男として生まれる。14歳からギターを始め、17歳で、父親の旧友でもあるシンガーソングライター・西岡恭蔵のアルバムでセッション・デビューを果たす。現在は、スティール・ギターをはじめとするマルチ弦楽器奏者として細野晴臣、高橋幸宏、ハナレグミ、アン・サリー、畠山美由紀、Human Audio Spongeなどのレコーディングやライヴで活躍中。ソロとしても今までに5枚のアルバムをリリース。2008年には、高橋幸宏、原田知世、高野寛、高田漣、堀江博久、権藤知彦の6人で「pupa」を結成し、デビュー・アルバム『floating pupa』を発表している。同年、崔洋一監督によるショートフィルム「ダイコン」(小泉今日子主演)の音楽を担当。

